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石塚山古墳(第二話参照)築造から一世紀余り後、約二・五キロ南に御所山古墳が築かれた。石塚山古墳と同様、海岸線に造られた前方後円墳である。古墳時代、苅田地域に一大勢力が栄えていたことがうかがえる。
律令時代になると、豊前国の国府(みやこ町)が設置され、草野(行橋市)に港が築かれた。当時、港のことを「津」といった。津々浦々の津である。草野津は豊前国の要港として栄えたが、長峡川から流れ込む土砂が堆積して次第に港湾機能を失っていった。代わりとなる新しい港が必要になり、数キロ北東に新しい津が築かれた。新津である。中世になると、港は今井津(行橋市)へと移っていった。
新津の地名は近世になって、手永名として歴史に刻まれることになる。手永とは小倉藩が郡と村の間に置いた行政組織であり、苅田地域の大部分の村は新津手永に属した(鋤崎・黒添・法正寺・谷・山口各村は延永手永)。手永には大庄屋がおり、各村の庄屋を監督していた。新津手永大庄屋の役宅は与原村に置かれていた。御所山古墳のある村だ。
近代になると、石塚山古墳や御所山古墳の地先で苅田港の建設が始まった。古墳や新津から始まった海辺の物語が、再び、苅田地域に戻って来たのだ。さらに、海上に北九州空港が建設されると、物語は海辺から沖へと広がっていった。