ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
現在地 トップページ > 組織でさがす > 教育委員会 > 生涯学習課 > 黒田官兵衛ゆかりの豊前松山城物語

本文

黒田官兵衛ゆかりの豊前松山城物語

ページID:0001884 更新日:2023年12月19日更新 印刷ページ表示

松山城山頂から
松山城跡から見た北九州空港

松山城物語

其の壱名将・小早川隆景が豊前国一堅固と賞賛した城

 北九州空港から連絡橋を渡ると、正面に松山が出迎えてくれます。今では周囲を埋め立てられ、工場群の中にぽつんと端座していますが、かつては海に突き出た半島状の要害でした。

松山城連絡橋から標高128mの山頂から眺めると、苅田港、北九州空港が眼前にあり、天気の良い日は遠く中国地方や国東半島を見ることもできます。

松山城が築かれたのは、『豊前國古城記』によると天平12(740)年で、反乱を起こした藤原広嗣が官軍を防ぐために築いたとされています。

その200年後の天慶3(940)には、「地下人」の神田光員が藤原純友の反乱を防ぐために城に籠り、以後18代にわたって城を守ったと『豊前國古城記』に記されています。神田氏の後は平氏、緒方氏、宇都宮氏、長野氏、少弐氏と目まぐるしく変わっていますが、いずれも伝承の域を出ません。

14世紀後半になって、周防の大内氏が豊前国守護に補任されると、守護代に重臣の杉氏が送り込まれ、北上の機会をうかがう大友氏と絶えず争いながらも、松山城を中心に豊前を治めました。

天文20(1551)年、周防で、大内義隆が重臣の陶晴賢(隆房)に攻められて自刃しました。このとき、豊前国守護代であった松山城主の杉重矩も晴賢に与しましたが、翌年1月、晴賢と対立し、破れて自害しています。

大内氏が滅ぶと、陶氏を倒して版図を広げた安芸の毛利氏と豊後の大友氏の間で松山城をめぐる争奪戦が繰り広げられました。

永禄4(1561)年には門司を中心に陸海両方で大きな戦いがあり、毛利勢が勝利しました。毛利元就の三男で、毛利勢の中心人物である小早川隆景が松山城に入城しています。

隆景は知人に宛てた永禄4年12月8日付の書状で松山城のことを「国中見渡堅固之在所之第一」(『筑前麻生文書』)と書いており、豊前国一堅固な城と賞賛しています。

隆景は杉重矩の孫、重良を名目上の城主とし、天野隆重や内藤就藤らを城番として置きました。

大友宗麟は翌年にかけて執拗に松山城を攻め、宗麟自身も苅田まで出陣しています。しかし、城方は、天野隆重が中心になって守りぬきました。

永禄12(1569)年になって、毛利氏は領国内でおきた反乱に対応するため、門司城のみを残して数万の兵を長府へ引き上げさせました。このとき、松山城からも退去し、杉重良は長門へ去りました。

このため、豊前国は大友氏の支配下に置かれますが、その大友氏も天正6(1578)年、耳川の戦いで島津勢に大敗し、一気に勢力を弱めていきます。追いつめられた大友宗麟は豊臣秀吉に泣きつきます。

豊臣秀吉は毛利氏と長宗我部氏を屈服させた後、島津氏討伐に動きます。天正14(1586)年、秀吉は毛利輝元、吉川元春、小早川隆景の毛利勢に豊前への出陣を命じ、軍奉行として黒田官兵衛孝高を派遣しました。

其の弐   黒田官兵衛の布陣と松山城改修

 黒田官兵衛と毛利輝元・小早川隆景ら毛利軍は10月3日、関門海峡を渡り、翌日、2万5千の軍勢で小倉城を囲みました。当時、小倉城は、香春岳城(香春町)を拠点とする高橋元種の支城で、城代・小幡玄蕃が守っていましたが、攻められて自刃し、城兵は逃げ去りました。

小倉城を落とした毛利軍は松山城へと陣を進めました。この当時の松山城は馬ヶ岳城(行橋市・みやこ町)の長野助守の抱城であった可能性が高く、降伏して城を明け渡したものと思われます。

官兵衛の調略もあり、近隣の豪族が次々と降伏を申し出ましたが、高橋元種だけは対決姿勢を崩しませんでした。小倉城は奪われたものの、香春岳城を拠点に、障子ヶ岳城、宇留津城(築上町)を抱えていました。

黒田官兵衛と小早川隆景らは11月7日、まず宇留津城を攻めました。城に籠る加来基信は高橋元種に人質を取られていたため、降伏することができなかったといわれています。

城は一日で落ちました。『黒田家譜』によると、城に籠る2千余人のうち千余人の首を取り、残る男女373人を生捕にして磔にかけました。報告を受けた豊臣秀吉は官兵衛と隆景に「心地よき次第候」と書いた感状を与えています。

毛利軍は11月15日に障子ヶ岳城(みやこ町・香春町)を攻め落とした後、香春岳城に迫り、12月11日、高橋元種もついに降伏しました。

黒田官兵衛はそのまま香春岳城に陣取り、その他の諸軍は松山城や馬ヶ岳城(行橋市・みやこ町)に拠って越年しました。

天正15(1587)年3月1日、ついに豊臣秀吉が大坂を発しました。3月28日、小倉に入って軍評定を行い、翌日、馬ヶ岳城に入りました。

秀吉は大軍をもって島津勢を圧倒。4月21日、島津義久が和睦を申し入れてきました。

九州を制圧した秀吉は、7月3日、小倉城に入り、九州仕置を発表、諸将に知行宛行状を出しました。

黒田官兵衛には豊前国8郡のうち京都・仲津・築城・上毛・下毛5郡と宇佐郡の一部約12万石が与えられました。

官兵衛は馬ヶ岳城に入りましたが、山城で領国経営には不向きなため、中津川(山国川)に面した平城・中津城を築きました。

松山城石段松山城は黒田領の最北端に位置し、藩領境を守るための重要な支城となりました。中津城の築城とあわせて、松山城の改修が行われたものと思われます。

昭和61(1986)年から平成3(1991)年まで行われた苅田町教育委員会の調査で、山頂に主郭、東側に二の郭、三の郭が連結されていることが確認され、礎石、石垣、石段など主郭にかかわる遺構が現存していることが判明しました。『福岡県の名城』によると、これらの遺構には随所に織豊系縄張り技術が見られ、黒田氏が大規模改修したことがわかります。

さらに、松山城跡から黒田官兵衛ゆかりの瓦が出土しました。

最終回   官兵衛ゆかりの瓦と黒田二十四騎・衣笠景延

 松山城の調査では主郭などから多数の瓦が出土しました。「城だから瓦が出るのは当たり前」と思われる方も多いかもしれませんが、実は中世・戦国時代までの城は屋根を瓦で葺いてはいません。最初に城に瓦を用いたのは織田信長だといわれています。当然ながら、毛利氏と大友氏が争ったころの松山城には瓦葺きの建物はなかったはずです。

桐葉紋出土した瓦の中に桐葉の紋様が施されている軒平瓦がありました。桐葉紋とは桐紋の花の部分を省略した紋様です。桐紋は本来、菊紋とともに天皇家の御紋で、現在は日本政府の紋章となっています。

織田信長は将軍足利義昭を通じて桐紋を賜り、安土城の瓦に描きました。自らの権威の象徴として使ったものと思われます。

下の写真は桐葉の模様の部分を拡大したもの(苅田町歴史資料館蔵)
桐葉紋dai信長の死後、桐紋は豊臣秀吉に引き継がれ、大坂城、聚楽第、伏見城の瓦に使われました。また、秀吉は一門や主だった家臣に桐紋の使用を認めました。

軍師・黒田官兵衛もその一人でした。官兵衛が築いた中津城から桐紋の瓦が出土しています。

同時期、松山城も大改修が行われたと思われますが、そのとき、初めて瓦葺きの施設が建てられ、軒平瓦に桐葉紋が施されたのでしょう。

この官兵衛ゆかりの瓦は、現在、苅田町歴史資料館(三原文化会館前)に展示されています。(午前10時~午後4時見学無料)

慶長5年(1600)、徳川家康率いる東軍と石田三成を中心とした西軍の対立が激化すると、黒田官兵衛は家康に従う我が子長政とは別に、中津城で兵を集め、西軍の大友義統(大友宗麟の子)らとの石垣原の戦いに臨みました。

『黒田家譜』によると、官兵衛は出陣に当たって、松山城に衣笠景延を城代として150の兵を置きました。京都郡の隣の規矩郡(現北九州市小倉北・南区、門司区)は西軍に属した毛利勝信の領地であり、松山城は北の守りの重要な拠点でした。

衣笠景延は播磨の豪族の出で、御着城の小寺氏の家臣を経て官兵衛に仕えました。黒田氏の筑前移封後には三千石を与えられています。のちに、黒田二十四騎のひとりとなります。

物語の終わり

 黒田氏が去った後には豊前一国と豊後2郡30万石を得た細川氏が入りました。

細川氏は松山城を破却して城跡を牧場に変え、馬を放ちました。土塁が柵の役割を果たしたのかもしれません。

激しい攻防戦の舞台となった場所で馬がのんびりと草を食み、物語が静かに幕を閉じました。

(文責:苅田町教育委員会まちの歴史担当※広報かんだに連載した「松山城物語」を加筆修正したものです)

主な参考文献

『豊前國古城記』(東西文化社)『新訂黒田家譜』(福岡古文書を読む会文献出版)『福岡県の名城』(アクロス福岡文化誌編纂委員会編海鳥社)『北九州戦国史』(八木田謙今井書店)『九州戦国の武将たち』(吉永正春海鳥社)「金箔瓦、桐紋、菊紋」(加藤理文『季刊考古学120号』雄山閣)『天下統一と城』(国立歴史民俗博物館)『黒田長政と二十四騎』(福岡市博物館)「牧場のあった村」(川本英紀『ティータイムの歴史学105』みやこ町歴史民俗博物館)『行橋市史資料編中世』(行橋市)『軌跡-かんだの歴史』(苅田町)『苅田町文化財調査報告書第8集豊前国松山城跡』(苅田町教育委員会)

松山城跡

アクセス JR苅田駅よりコミュニティバスで「松山城登山口」下車

登山道 登山口から徒歩約30分で山頂

トイレ 登山口に仮設トイレあり(山頂にはありません)